この先の10年

 ある著名な作家先生と酒席を共にさせていただいた。現代史家としても高名なその作家先生の話は機知に富み洒脱で、文弱の僕たちを前に一人奮闘し場を飽きさせることがない。特に現代史に明るくない僕は阿呆のように頷くしかなく、情けないことこの上なかった。

 その作家先生は出版社の編集者としてサラリーマン生活も全うさせた。編集者時代、20代のころに社内に現代史の勉強会を立ち上げ、30代のときには朝4時に起き出勤までの短い時間に文章を磨く訓練を重ねたこともあるそうだ。

 作家先生はただただ頷いてばかりの僕に優しく言う。「君はまだ30代ですか。それならばこの先の10年間、一つのことを一生懸命、勉強してごらんなさい。チェーホフでもなんでも構いません。目先の関心がころころ変わる時代だからこそ、それだけでその道の一流になれると思いますよ。」

 作家先生の箴言を聞きながら、30代と言っても30代後半の僕の中からは、20代のころのように「10年後にはこんな自分になっていたい」というような青っぽい初心も努力もいつしか失われていたことに気がつかされた。

 「この先の10年・・・・」。座の喧噪の中でアルコールに身を委ねていると、頭の中を作家先生の言葉がぐるぐる回った。そして数日たった今もぐるぐる回る。

日本のいちばん長い日 決定版 (文春文庫)

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