チルドレン

 過日、東京湾岸の病院に入院中のAさんが退院するというので、その頃合いが妥当なのか相当に迷いながらお見舞いに行く。駅を降り、強風をこなして病棟にあがるとAさんはナースセンターの前で看護師さんと談笑中。厭らしい意味ではなくなぜか女性に人気があったAさんらしい。病室で入院に際して購入したというMacBookAirを見せてもらい、その薄さに驚いたりする。

 10年ほど前、東京に転勤してテレビディレクターの見習い期間を過ごしていたころ、まだ何もわからなかった僕に、番組制作に関わる一切を教えてくれたのがAさんだった。約3年間、私生活も含めて誰よりも長い時間をAさんと過ごした。その多くは酒場で、7割が番組の話、3割が小説や映画の話。でも、酒席にありがちな人の悪口の類は皆無だった。構成のアイデアや取材の突破口、コメントの妙案を思いつくと、割り箸の袋に書き殴り、それがまた翌日の番組作りの方針になった。あのころの僕はAさんに認められたくて、とにもかくにも、あるのかないのかまったくわからない微力を振り絞っていたようなものだった。
 
 たとえば。3日間の完徹で全くの思考停止になった時、「ソファーで寝てていいよ」と促され、仮死状態のような2時間がたったあと「コメントが書けたぞ」とより起こされた日。天災で故郷を離れざるを得なかった人々を追いかけたドキュメンタリーを作っていたとき、一時的に帰宅出来ることになった老婆が夫の眠るお墓に「造花」を持って行くのだと取材報告したとき、老婆が「造花」に込めた切ない気持ちを教えてくれた日。それぞれの「日」が、ほんわかと輝いていた。

 退院手続きを済ませ近くの喫茶店で話しこんでいると、そんなことが次から次へと思い出された。

 「3年間」の濃密な時間のあとは、Aさんの部署が変わったことや僕自身の酷薄な性格のため、以前ほどには行き来がなくなった。その後、僕が、様々な局面ですばらしい上司や同僚に恵まれたことも、あの3年間の濃厚な日々の記憶を薄める一因となったに違いない。酷薄な僕の日常から派生するAさんへの朧気な罪悪感を抱えなながらの、あの「3年」のあとの、長い「7年間」は否応なくすぎていった。

 喫茶店での長い時間を話しているとAさんは何度も何度も「いい番組を作りたいなあ。また作ろうな。」と言う。何度も何度もである。僕は自分の不貞を思いながら堪らない気持ちになる。そしてAさんは、「またな。」、と言って、改札を颯爽と抜けてく。後日電話をすると、予後が決してよくないという。僕はこんなときにだけ「神様」を持ち出し、Aさんの安寧を心から祈ってみたりする(どんな効果もないだろうが)。

 僕たちの職場では、番組制作において誰の影響を受けたかということの意味で「@@チルドレン」というような呼び方がされることがある。僕は、間違いなくAさんのチルドレンだ。そしてそのことを誇りに思う。