「私に徹しつつ、私を捨てること。」

開高健


何かを創造していくとき、それがどんな小さなものであれ、自分の立ち位置をどう定めるかが大きな問題になるし、そのことでずいぶんと悩んできました。
組織の中でドキュメンタリーを作っていくとき、自分が見たものや感じたこと、大切だと思うことを、相対的な文脈に置き換えると「大文字」に変換され、「それらしい」修辞や「もっともらしい」物語に修練されていくことがよくあります。
特に、新聞の一面を飾るような「テーマ」ではない場合、取材の現場、ロケの現場、映像編集の現場、それぞれで自問自答を繰り返し、時に罵倒され嘲笑されながら、自分の番組に何とか「血の一滴」を注ぐ、そんな作業を続けている気がします。

最近、開高健のノンフィクション作品を再読し、彼の出自がルポライターでもジャーナリストでもないだけに、作品性とは別に、その「姿勢」にとても共感出来る部分が多いことに気がつきました。

ノンフィクションには思想性が必要だとかなんとかいうけど、そんなもの、かえって目障りになる場合が多いね。そんなもんより問題は何を書くかということなんで、その人の思想性などはかいていれば、もうおのずから現れるものとちがう?融通無碍に自由に意識を開いておくほうが先決やないか、そう思いますね。

いつも自分に徹し、自分を捨てなきゃならない。そうでないと、物をながめる、観察することなんてことができない。だから、そういうことになってくるとノンフィクションもフィクションも、批評という活動も同じやね。「私に徹しつつ、私を捨てること。」
(週刊プレーボーイ 79年5月8日号)

「私に徹すること」と「私を捨てること」そこから見えてくるものを必死に解釈すること。そんなことの大切さを映像にうつしこんでいきたいと思います。