川崎泰資・柴田鉄治「組織ジャーリズムの敗北」

 書店に平積みされていた「組織ジャーリズムの敗北」という本を衝動買いし、一気に読む。
とても重い内容で、肺腑にずしりと来た。つまりは、非日常的な事態の場合のみではなく、凪の日常において個々人がどのように振る舞うことが出来るのかが問われているのだ。

 その一方で、本の性格上仕方がないのかもしれないけれど、気になる「力み」が散見された。たとえば、朝日新聞が80年代後半から「総合情報産業」を目指していく過程の検証の中で、著者は、新聞は「社会に対する影響力でこそ測られるべき」で、「利益率でなどで論じられる普通の会社ではなく」「ジャーナリスト精神をいかに発揮するかという『志』産業というべきもの」と断じている。それは確かにそうなのだろうだが、今の時代、マスコミは「普通の会社」ではないとして、特殊性や、特権性を主張する謂いは、残念ながら多くの人々の心には響かないだろう。
 マスコミがそのロジックの塹壕の中から議論をし続ける限り、真のジャーナリズムの再構築は難しいのではないのだろうか。何か大きなものに抗していくのに必要なのは反り返ったような「力み」ではなく、もっと何か別の、「心の軽やかさ」のようなもののような気がするのだが・・・。

 なぜか茨木のり子の詩を思い出す。

         

         自分の感受性くらい

        ぱさぱさに乾いてゆく心を
        ひとのせいにはするな
        みずから水やりを怠っておいて

        気難しくなってきたのを
        友人のせいにはするな
        しなやかさを失ったのはどちらなのか

        苛立つのを
        近親のせいにするな
        なにもかも下手だったのはわたくし

        初心消えかかるのを
        暮らしのせいにはするな
        そもそもが ひよわな志にすぎなかった

        駄目なことの一切を
        時代のせいにはするな
        わずかに光る尊厳の放棄

        自分の感受性ぐらい
        自分で守れ
        ばかものよ

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい