日常の豊饒さ/吉本隆明「恋唄」
他部署の先輩が作った番組を見た。まだ具体的な放送日は決まっていないそうだが、90分サイズの長編ドキュメンタリーである。驚いたのは、番組が全くのノーコメントであること。近年のテレビ番組では、殆ど見られない演出方法だろう。下町に暮らす老夫婦と親子、その2組の家族に突きつけられる老いの日々を記録したその番組には、静謐な、しかし圧倒的な、感動と共感が含まれていた。
番組は、ノーコメントであるから、それぞれの家族の前史は語られない。取材が行われている「現在」以降だけが描かれていく。おせっかいなぐらいな情報過多な番組になれた視聴者である僕は、はじめの10分くらい、その生理になじめず戸惑いを感じた。しかし、10分を過ぎると、番組に自然と引き込まれていくのである。決して、劇的なシーンが連続するわけではないのだが、日常の、ささいなとしかいいようのない日常の積み重ねに、「生きるとは」「老いるとは」「家族とは」という始原的な問いを突き付けられるのだ。
翻って、普段、日常の豊饒さに目を向けた取材がどれだけできているだろうと、自問自答させられた。テレビは神経症的に多くを語りすぎ、多くのものを曇らせているという気さえした。
最近、吉本隆明の初期の作品を睡眠薬として読み返しているのだが、大先輩の挑戦的な番組を見たあと、最近読んだ詩が脳裏に浮かんだ・・・。人は、多数の人に理解はされなくても、無援の挑戦を続けなければ駄目なのだ。
恋 唄
ひととひとを噛みあわせる曲芸師が 舞台にのせようとしても
おれは信じない
殺害はいつも舞台裏でおこなわれ 奈落をとおって墓地に
埋葬される けれど
おれを殺した男が舞台のうえで見得をきる
おれが殺した男は観客のなかで愉しくやっているおれは舞台裏で じっと奈落の底を見守っている けれど
おれを苦しめた男は舞台のうえで倒れた演技をしてみせる。
おれが苦しめた男は観客のなかで父と母とのゆうに悲しく老いる昨日のおれの愛は 今日は無言の非議と飢えにかわるのだ
そして世界はいつまでたってもおれの心の惨劇を映さない
殺逆と砲火を映している。
たとえ無数のひとが眼をこらしても おれの惨劇は視えないのだ
おれが手をふり上げて訴えても たれも聴こえない
おれが独りぽつちで語りつづけても
たれも録することができないおれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが死んだら花輪をもって遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ吉本隆明 1957年