フィッツジェラルド「ジャズエイジのこだま」/NHKスペシャル「映像の世紀」

 気がつけば同じ本を何度も買ってしまうことがあるけれど、スコット・フィッツジェラルドはそんな作家だ。
この前、高田馬場の古本屋街で、定価より高い値段で絶版になったフィッツジェラルドの文庫本を買ったら、実家に同じ文庫本が2冊もあった。
 フィッツジェラルドの、狂乱と繁栄と倦怠と破滅の1920年代という時代に呼応するような、崩壊の予兆を秘めた作品世界は、常に緊張をはらんでいて、はかなくも美しい。そして、アルコールが他の作家のどんな小説よりも似合う気がするので、その時々の精神状態に応じて何度でも、読み返したくなるのかもしれない。
 僕の学生時代に放送されたNHKスペシャル「映像の世紀」の第三集「それはマンハッタンから始まった」では、ブラックマンデー当日のウォール街のフィルムにあわせて、フィッツジェラルドの「ジャズエイジのこだま」の一節が引用される。「映像の世紀」は何度も再放送されビデオやDVDにもなった人気シリーズだが、僕自身は第三集が、そのシーンがあるがゆえに、全てのなかでベスト1だと勝手に思っている。加古隆の音楽とともに展開されるそのシーンは、まるで映画のように本当に格好がよい。

 

何か光り輝く異様なものが空をよぎった。同世代の人びととは何も共通点も持たないかに見えた一人のミネソタ出身の若者が、英雄的行為を成し遂げた。しばらくの間、人びとは、カントリークラブで、もぐり酒場で、グラスをしたに置き、最良の夢に思いをはせた。そうか、空を飛べば抜け出せたのか。われわれの定まることをしらない血は、果てしない大空にならフロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。しかし、われわれは、もう引き返せなくなっていた。ジャズエイジは続いていた。われわれは、また、グラスを上げるのだった。

 
 思えば、日本にも、フィッツジェラルドの20年代と同様の時代はあった。バブルは、まさに、そんな時代だったろう。しかし、歴史的時間の経過ののち、フィッツジェラルドの作品のように、あの時代の精神(狂喜も狂気も混沌も混乱もひっくるめて)を映しだす、文学やドキュメンタリーは、遺されているのだろうか。下世話な意味で、あの時代のこっぱずかしさを感じさせる作品は多いだろうが、あの時代に殉じたような作品はあまり記憶にない。80年代に颯爽と登場した村上春樹は、しかしながら、「あの時代」という範疇を凌駕している。しいていえば田中康夫の「昔みたい」という短編ぐらいだろうか。
 時代の気分を体現することは、なんと難しいことかと思ったりする。