開高健「過去と未来の国々」ほか

たまっていたスクラップを精読する。新聞の<紙>の記事を丹念に読むことは、自分の中に何かを定着させてくれる。僕の年齢ではネットとはまた作業として、うち捨てることは今後も出来ないだろう。
スクラップをまとめてあとで読むといいのは、「記事」を時間が淘汰してくれるので、自分に何が関心があるのか、精査しやすいところだ。手当たり次第にスクラップを読んでいると、様々な諦念があり、怒りがあり、怠慢がありで、今という時代もまた過去の時代と同じように、集合的現在に過ぎず、未来を透徹する展望を持つのは何と難しいことかと考えさせられる。


開高健の作品のうち「過去と未来の国々」など諸々のルポを読み返す。
「過去と未来の国々」は中国や東欧の旅行記だが、進歩的知識人に支持されていた"社会主義"に対する距離感が、あの時代にして、極めて冷静であることに感心する。当然、社会主義が示した変革の胎動に、開高自身もある種の共感を抱いているのだが、そこには状況への空手形的な評価はない。ただ「現場から何かを見よう」とする開高は、人々が発する「壮大な言葉」の繰り返しに、うんざりした気持ちを正直に表明していたりもする。(現代的な尺度からすると当然だが、当時としては極めてまれな公平な意見だろう。)このことは、最近とみに集団ヒステリーに陥りがちで、冷静に、自覚的で、あることに思考停止する現在のマスメディアの態度と対照的だ。

ルポのうち「"革命"を夢みる学生諸君へ」の中にあった警句も印象的だった。

 

君たちは機械の奴隷になりたくないと叫びながら機械になりたくてウズウズしている。左向きに自由から逃走したがっている。・・・・・・・いったい君たちの叫びには手や足の痛苦のひびきがまったくこだましていないが、組織労働者、未組織労働者を問わず、労働者そのもとと接触したことがあるのだろうか。思想は本屋へいけば何でも即座に手にはいるが、皺を手にいれるのはつらい時間がかかるのだよ。
 人は何かによっていなければいけないから"革命"という阿片に酔いなさい。しかし、ほんとに革命を起すのはさめきって、しらちゃけた、眼をそむけたくなるほどつまらない狂熱なのである。平常にして怪奇なそれを見たら、一瞥で石化してしまうであろう。


だいたいにして、言葉だけは威勢がいいものの肝心なところでは逃げるが勝ちで、日本社会を中途半端にしたのは上記のような世代だと思うのだが、1969年の時点で開高はその自己欺瞞性を看破していたのである。
当時の開高の爪の垢ほどの射程を持ちたいものだと思ったりもする。

過去と未来の国々  ―中国と東欧― (光文社文庫)

過去と未来の国々 ―中国と東欧― (光文社文庫)