高橋和巳の小説

 かつて、ほんの20年ほど前まで、「進歩的知識人」というジャンルがあり、論壇で主導権を握り、しかし今は、その領域を別の一群にとってかわられ、現在の形が正当なのか歪なのかよくわからないけれど、そういふうにして、日本という社会は進行しているのである。

 最近、「悲愴教の教祖」とよばれた高橋和巳の小説を読んでいる。「革命」だとか「前衛」だとか、そういうものがわずかながらでも信じられていた時代に、彼の小説や評論は熱烈に支持されていたという。小嵐九八郎氏は、エッセイの中で「なにせ、ちょっと左翼がかった学生をデモからもう一歩危ない地平に誘う時には、高橋和巳さんの小説を読んでいかないと「知性のひとかけらもないんですね」と、正しく指摘されてしまうほどであったのだ」と書いている。

 かつて彼を熱烈に支持していた「進歩的知識人」の卵たちはいったいどこに行ってしまったのだろうか。思想や言葉との戯れに飽いたら、また別の戯れへと移ろい、そのように「一生懸命ふう」に生きているのだろうか。