唇をかみしめて

 シルバーウィークの一日を利用して帰省する。父が相変わらず入院しているので、そのお見舞いだ。代わる代わる泊まり込んでいる母や兄の話では、少しずつではあるが快方に向かっているようだが、まだ意識の混濁は続いているという。

 

 病院は市街地を少しはずれた、かつて田園地帯だった街にある。最寄り駅からは10分程度の道のりである。昼下がりのローカル線、下車する人が殆どいないなかで、僕の他に小学校3,4年生ぐらいと思われる少年が、駅に降り立った。病院まではほぼ一本道。どうやら少年も病院に向かっているのだろう、僕と同じ方向に歩き出す。
 途中、信号があった。田舎道に自動車の陰は全くなく、僕は赤信号を気に留めず渡ろうとした。しかし、僕の後ろを歩いている少年は、律儀に立ち止まるようだ。僕も仕方なく立ち止まる。青信号に変わると、少年は早足で歩き始める。すると、しばらくしてまた信号があり、そしてまた赤である。相変わらず自動車の陰すらないが、また少年は律儀に立ち止まる。

 横断歩道に並び視界に入ってくる少年の表情は、何かを決意したかのように唇を固くかみしめ、ただ病院をまっすぐに睨んでいる。

 一つの想念が浮かぶ。少年は神様と約束しているのかもしれない。お父さんかお母さんか、大切な家族が入院してから毎日、少年は一人で祈り続けているのかもしれない。「良い子でいるから、いいつけを守るから、病気から救ってください。」と。楽しいはずのシルバーウィークにたった一人で病院に向かう少年は、信号が変わると弾かれたようにかけだしていった。

 父は先日よりは元気になっているように見えた。帰り道、自動車も誰もこない赤信号で、僕も律儀に立ち止まるしかなかった。