父の詫び状
遠方への出張が続き、背中にべったりとした疲れが覆い被さっているような気がしていた休日の前夜、珍しく田舎の兄から電話があった。何用だろうと訝しがって電話をとると「きょう父が入院した」という。脳炎のような症状が突然進み、足が利かなくなっているという。青天の、霹靂。言うこともわからないことが多いのだという。
翌朝、妻を伴って入院先に赴く。一見、いつもの深酒をした後のような寝姿で横になっているのだが、検査のためにきつい麻酔を打っているためか、僕たちのことが判然としない。核家族で育った妻は、家族の重い病に直面したことがないので、強くショックを受けている。兄がインフォームドコンセントを受けたときのメモを見る。病院は地元では最も高度な医療体制を持つ病院で、詳細な検査を行っているが、原因はまだよくわからないらしい。「一週間ほど前から体調が悪かったけど、あなたは忙しいから言わなかった」と母。日頃の不明を恥じる。
よく男親は、妻子に仕事の話しをするのを億劫がると聞く。その点、父は真反対だった。幼少のころから僕は、例えば、夕餉の席で自分の話をした記憶がない。父が、自分の仕事の話を止めどなく話すからだ。ど田舎の小さな会社の事務方だった父の、社内の一挙手一投足が、子どもだった僕の中にどんどん蓄積されていくが、小中学生の多感な日々にはほとんど関係のないことだった。けれど、そんなことは全くお構いなしに、父は話しながら、時に笑い、時に憤り、時に泣いたりしていた。一つ一つが世界の一大事のようであった。でも、一生懸命話す父の姿を見るのは、僕自身の話はできなくても、決して悪いことではなかった。
向田邦子のエッセイには父親の想い出がよく描かれる。妹の和子さんが、文藝春秋の最新号での座談で「父の詫び状は、姉がガンの宣告を受けたすぐあとに書いたもの」と、話されていた。確かに、「父の詫び状」は、家族の何気ないディテールが、他のエッセイよりも透徹した筆致で描かれているように感じる。和子さんの座談を読んで、何となくその理由が分かる気がした。
帰宅して久しぶりに「父の詫び状」を読んだ。そして、父の恢復を心から祈った。
- 作者: 向田邦子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/08/03
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夏の少年たち
甲子園で全国高校野球選手権が開かれているちょうど同じ時期に、全国の様々な場所を取材で訪れた。駅や空港に降り立つと、きまって地元の出場校に声援を送る垂れ幕が掲げられている。街を歩くと、ショールームのテレビから野球中継が流され、数人が立ち止まって見やっている。居酒屋に入ると、新聞社が配布するトーナメント表が張られ、おらが県の高校の戦いぶりの選評が喧しい。日本の夏なのである。
東北の街を訪ねたとき、駅近くに古本屋があって、ワゴンの100円均一本の中に、山際淳司の「ルーキー」を見つける。甲子園史上屈指の打者、清原和博が西武ライオンズに入団したその1年目の日々を追ったノンフィクションである。プロ1年目から圧倒的な存在感を発揮した清原の姿をあますことなく描いて鮮やかなこの本の中に「夏の少年」たちという一章があり、甲子園で清原と対峙した球児たちが描かれている。他者の視線で主人公を立体化させる趣きで、テレビドキュメンタリーでも主人公の描き方が薄弱な場合などによく用いられる手法だが、山際氏が描く少年たちの「表情」がとても良い。20点差以上という屈辱的な負け方をした山形のチームの捕手は、清原がらっきょうが嫌いだと知って、彼がバッターボックスに入ると「らっきょう、らっきょう」と唱え続けたという。エースでありながらPL学園との決勝戦のマウンドに立てなかった左腕投手は、レフトのポジションで試合の行方を見守りながら「自分のチームは清原に打たれて負ければいい」と思っていたと語る。
もう25年近く前の夏、たしかに日本の少年達の中心に「キヨハラ」がいて、その年は確かに特別な夏だったのだという感慨が、しみじみと湧いてくるのだ。
ことしの甲子園は将来性豊かな球児が目白押しだったと言われるが、彼らの中にも「キヨハラ」がいて、少年たちにとっても、この夏は人生の中で特別なものになるのだろう。
- 作者: 山際淳司
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1989/07
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おとうと
街をぶらぶらする。
通りで野外演奏会が開かれていて、一組の姉弟が演奏に聞き入っていた。時おり、姉が弟に演奏の説明をしてやっている様子だったが、腕白盛りなのか関心があまりないのか弟は集中力を切らせてしまう。それでも姉は熱心に音楽の魅力を弟に教えてあげているようだった。
映像に関する仕事をしている人には市川崑監督の信奉者は多いのだけれど、僕は不勉強で殆どの作品を見ていないのだが1960年のキネマ旬報ベストワン作品である「おとうと」は学生時代になぜか繰り返し見た。カラー作品なのだがモノクロの風合いで「色のない色を」と市川監督が宮川一夫カメラマンに要求したことで有名な映画だ。僕はその映像美よりも、岸恵子演じるところの姉・げんがとても魅力的に感じたのだった。
姉弟の後ろ姿を見ながら、久しぶりに「おとうと」を見てみたいと思ったりした。
- 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
- 発売日: 2007/09/28
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「1968」「戦争と青春」「少年時代」
週末に何か本を読もうと思って小熊英二の「1968」の上巻を読み始める。小熊氏の本らしく、その頁量は圧倒的で、仰向けになって読んでいると手首を痛めそうですらある。叛乱の季節とでも言うべきあの時代の通説を、丁寧にとぎほどしていくその内容は、まだ150頁ほど読んだだけだけど、圧倒的に面白い。けれど、通勤のお供にするにはあまりに重く、いつ読み終わるか知れないのが残念である。
夜は、日本映画専門チャンネルの戦争映画特集で「戦争と青春」と「少年時代」を続けてみる。今井正監督の「戦争と青春」は、古い邦画にはまっていた時期に、今井監督はまだ現役で映画を撮っていたのかという驚きとともに、映画館に足を運んだことがあった。その時からでさえ、はや18年。「記憶」の難しさに想いをいたす。
「少年時代」は、田舎育ちの自分にはその世界のありようがあまりにもよくわかり、エンディングは何度見ても、疾走する武の姿に、泣けてきてしまう。
- 作者: 小熊英二
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2009/07/01
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8月のジャーナリズム
8月がきて、今年もNHK・民放問わず戦争関連ドキュメンタリーの力作が並ぶ。居住まいを正して番組を見る。
「日本海軍 400時間の証言」「核は大地に刻まれていた」「戦場のラブレター」「康子のバラ 19歳・戦禍の日記」など。厳粛な気持ちで見る。
ドキュメンタリードラマ「少女たちの日記帳」では、エンディングのカタルシスに、涙がふいに出てくる。
何年か前のNHKスペシャルで原民喜の「心願の国」が引用されていた。あれ以降、この時期になると読み返す癖がついた。この小文を書いたあと民喜は核戦争の予感の中で自死する。筆舌につくせぬ哀切と無念。今回、見たすべての番組に、民喜の運命と同様の哀切と無念を感じ、言葉を失うのである。
ふと僕はねむない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身体、僕の存在、僕の核心、どうして僕は今こんなに冷えきっているのか。僕を生存させている地球によびかけてみる。すると地球の存在がぼんやりと僕のなかに浮ぶ。哀れな地球、冷えきった大地よ。だが、それは僕の知らない何億年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮かんでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いている。あの溶鉱炉のなかには何が存在するなのだろうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混じっているのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴だすとき、この世は一たいどうなるのだろうか。人々はみな地下の宝庫を夢みているのだろう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかって・・・。だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものよっても粉砕されない時が、そんな調和がいつか地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みていたような気がする。<<
高橋和巳の小説
- 作者: 高橋和巳
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最近、「悲愴教の教祖」とよばれた高橋和巳の小説を読んでいる。「革命」だとか「前衛」だとか、そういうものがわずかながらでも信じられていた時代に、彼の小説や評論は熱烈に支持されていたという。小嵐九八郎氏は、エッセイの中で「なにせ、ちょっと左翼がかった学生をデモからもう一歩危ない地平に誘う時には、高橋和巳さんの小説を読んでいかないと「知性のひとかけらもないんですね」と、正しく指摘されてしまうほどであったのだ」と書いている。
かつて彼を熱烈に支持していた「進歩的知識人」の卵たちはいったいどこに行ってしまったのだろうか。思想や言葉との戯れに飽いたら、また別の戯れへと移ろい、そのように「一生懸命ふう」に生きているのだろうか。
「運命の人」
四国へ出張する空港で山崎豊子の「運命の人」を購入。外務省機密漏洩事件を材にした小説であるが、山崎豊子の本はすぐに読めるので、行き帰りで読めてしまう。同じく現代史をベースにする前作「沈まぬ太陽」よりも、主人公の描写に陰影があるため、読後感の余韻が複雑であるのは、良い。「沈まぬ太陽」は、組織で生きる身からすると、涙するところが多い小説だが、ファクトに重きをおくにしては、勧善懲悪な大映調すぎるのである。
外務省機密漏洩事件といえば澤地久枝氏の力業「密約」が出色だ。「知る権利」という問題から男女の下半身の問題にすりかえた為政者側の狙いに易々とのったマスメディアによって、被害者としての側面が強調された女性事務官の、実は一筋縄ではいかない実像ににじりよった、「時代に翻弄される女性」をひとつのテーマにしてきた澤地氏の本領が発揮されたノンフィクションである。
「運命の人」を読んでも感じるが、事が起こったときの大本営側からの情報に右往左往する日本のマスメディアの射程の短い脊髄反応、まったく変わりがないのだなあと自戒する。
- 作者: 山崎豊子
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- 作者: 澤地久枝
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